猫が嫌いだ。
猫が嫌いだ。あの愛くるしくて基本的には無害な生き物が嫌いだ。日がな一日惰眠を貪り、日向で怠惰に伸びをする姿が嫌いだ。半径数メートルの人間を否が応でも振り向かせ、接する人間全てから強制的に猫なで声を発させてしまう。上目遣いでこちらを覗き込み「にゃーん」と鳴く姿は、魅了の魔力かなんかを持ってると思う。猫が嫌いだ。あいつら自分自身の可愛さを自覚していやがる。
そもそも人類猫好きすぎると思う。ありとあらゆる商品に猫のモチーフがあしらわれている。雑貨はもちろん衣類、食器、化粧品。やろうと思えば猫まみれの生活ができてしまう。猫カフェとかいう金を払って猫を愛でる商売が成り立っちゃってるし、猫との生活を描いた書籍は日夜大量に出版されている。小説や絵画など、古今東西様々な作品にも登場する。その勢いたるや、街角で「猫は嫌いだ」なんて叫ぼうもんなら生きて家には帰れないのではないかという程だ。いや、さすがに言い過ぎか。
まぁ私の家でも飼い始めたんだけども。
家に帰ると猫がいる生活がはじまって、半年を過ぎただろうか。正確にいえば母の猫である。私は乗り気ではなかったのだが、事後報告でなし崩し的に飼い始めていた。実を言うと私が猫を決定的に嫌いになったのは、猫を飼い始めてからだったりする。思ったよりうるさくて、思ったより毛が抜けて、思ったより意思の主張が激しいのだ。人間が思い通り行動をするまで鳴き続ける。足元にまとわりつく。朝は4時には起こしてくるし、部屋にこもればドアの前でギャン鳴きする。そのくせちょっと撫でてやればすぐに喉を鳴らす。元野良の根性はどこに置いてきたのか。無警戒にこちらに腹を向ける。生殺与奪を握る、自分より体の大きな生き物にそれはちょっとないと思う。もっとツンケンして欲しい。チョロ過ぎて不安になる。
そもそも私は哺乳類飼うのがあまり好きではない。小学生のころ誕生日に買ってもらったハムスターを看取ってからというもの、
「本当にあの子は幸せだったんだろうか」
「うちに来ない方が幸せな人(ハムスター)生だったんじゃないだろうか」
「ちゃんと寿命まで生きたからと言って幸せであったとは言えないんじゃないだろうか」
「というか人間も哺乳類なのに同じ哺乳類を飼うことは許される行為なのか?」
……などという考えから抜け出せないでいる。たかだか数十年しか生きない人間が、他種族の生命の責任を背負えるのだろうか。愛玩のために彼らの一生を縛り付けていいのだろうか。彼らは何故か無警戒にこちらを信用してくるのだ。その信用を裏切りはしないか。
「生命の責任」なんて言ったが、ペットを飼うな、などと主張するつもりは毛頭ない。また、多様な食文化を否定するつもりもない。日本人はクジラを食べる。同様にペットとして飼われるような動物を食べる文化もある。それらは理解出来なくとも尊重はされるべきだ。生きるということは命をいただくということだ。今流行りのヴィーガンになるつもりもないし、「いただきます」をちゃんといえばすむ話だと思う。
ただ、自分が飼い主となった場合、彼らを幸せにできるという自信が無いのだ。食肉の理論で言えば「そこにいてくれること」を感謝すればすむ話である。しかし私には、四六時中彼らを全力で愛し続けることは出来ない。衣服に着く毛も、餌や糞の世話も煩わしい日がある。あざとい仕草に苛立つ日もある。そういう日に「いない方がよかった」なんて思ってしまう瞬間が、絶対にないと断言出来ようか。身近なぶん、彼らに返す感謝量の適正値がわからなくなる。漠然とした罪悪感がのしかかる。それに耐えられない。そんな私が彼らを好きだと言い切ることなど、到底できやしない。
だからあえて言う。私は猫が嫌いだ。母が飼ってる猫も含め、嫌いだ。彼らが幸せに生きるサポートは出来る限りするけれど、できれば近寄ってきて欲しくない。そんなに信頼しないで欲しい。あの子は私の猫ではない。母の猫だ。だから許されたい。私は猫が嫌いだ。
という訳で、つまり、創作物の中の猫なら案外好きだったりする。絶対にこちらからは手を出せない猫だ。かわいさしかない。あとただ単に人間に好き勝手される存在じゃなかったりするし。
傷物語での羽川翼に憑いた怪異とかがいい例だと思う。障り猫。生命としての猫の原型留めてないじゃんとか言う意見は聞かなかったことにする。というかブラック羽川は良い。とてもいい。かわいい。最高。
というか羽川翼が好きだ。その口癖からしていい。「何でもは知らないよ。知っていることだけ」って、知らないことに出会ったらまず調べるっていう彼女の姿を如実に表している。この一言に彼女のキャラクター性が詰まっている。
話が逸れるが、阿良々木暦の「友達はいらない 人間強度が下がるから」もいい。共感ができるわけではないが、言いたいことはわかる。そしてそういうこと言っちゃう阿良々木暦がいい。
忍野メメの「助ける?そりゃ無理だ。君が勝手に一人で助かるだけだよ。」も、彼のキャラクターが滲み出てる。最初読んだ時は意味不明だったけど、最近わかるようになった。要はものすごく無責任なのだ。「助けた」という行動の責任すら負わない。感謝されない代わりに、その行動で生じた何らかの不利益も無視している。「あなたが助けたせいで!」なんていう非難をさせる隙がない。好き。その上ちゃっかりお金は請求するのだから最高だと思う。物語シリーズで1番好きなキャラクターかもしれない。
閑話休題。
最近ではTwitterでも猫動画とか写真とか大量に流れてくる。Twitterの猫画像は画面の向こうに猫が居るのでアウトだ。しかもツイート主がパクツイアカウントだったりする。それも猫嫌いに拍車がかかる。無責任なのは創作物の中だけにして欲しい。猫のかわいさを食い物にしないでくれ。猫はSNS映えのために生きてるんじゃないぞ。しかもちゃんと面白いのがまた腹が立つ。この前なんか猫科4種くらいが伸びをしている画像が流れてきた。虎とか豹とかに混じって猫。表情筋を的確に攻撃してくる。良くない。
虎といえば今日の授業で漢文の先生がこんな話をしていた。
先生の知り合いに商社で出世した人がいた。どれくらい出世していたかと言うと、中国勤務時には運転手・料理人付きの豪邸に住んでいたくらいだ。ちょっと想像が追いつかない。その人が中国に住んでいた頃の話である。
その日は家族で外出していた。家族といっても子どもは受験の時期で日本にいたため、夫婦水入らずだ。運転手付きの車で優雅に帰宅途中、元々悪かった天気がひどい嵐になっていった。そこで料理人に、「大雨の中買い出しに行くのも大変でしょう。どうぞ家にある食材で適当に作ってください。」と連絡した。
帰宅後、彼らに出されたのは豪勢な肉料理だった。
「見たことない肉だ。いったい何肉なんだ?」
「虎です」
虎の肉といえば『体の悪い部分と同じ部位を食べればたちまち健康になる』と言われ、漢方などでも重宝される。とても貴重な肉だ。それをこの料理人は隠し持っていたのだ。
ふと、妻はあることに気付いた。いつもなら擦り寄ってくる飼い猫がいない。
「猫はどうしたんですか?」
もうおわかりだろう。料理人は答える。
「あなたのお腹の中ですよ」
「中国では現在『虎の肉』とは『猫の肉』を指します。ちなみに奥さんはそれを聞いてさすがに気絶したそうです。また『龍』と書いて『蛇』を指したりもします。先生もレストランで……」
…………変な声が出た。話が全く頭に入ってこない。脳裏を駆け巡るのは、足元にすりよる猫、上目遣いでこちらをのぞき込む猫、すぐに腹を見せる猫、無限に毛をまき散らす猫、そして、美味しそうな肉料理。
あぁ、人間強度が下がるとはこういうことなのだ。
私は猫が嫌いだ。
漢文の先生も嫌いだ。