タピオカに3時間並ぶ人の自分語りブログ

タピオカに3時間並ぶようなJD(女子大生)の生態例

桜の樹の下の死体は私の恋人です

 まぁ比喩なんですけど。

 私は今現在非リアで恋人はいない。浪人生だしね。

 

 では桜の肥料になってる私の恋人は一体何かというと、今花見を楽しめる私の感性である。

 

 梶井基次郎という作家をご存知だろうか。教科書で名前を見かけた人、そこそこいるはずだ。もしかしたら某文豪バトルのアレでレモン爆弾を投げつけてくる変人白衣キャラとして知ってる人もいるかもしれない。カジイモトジロウとか微塵も聞いたことないぜって人も、「桜の樹の下には死体が埋まっている」という文言くらいなら聞いたことがあるんじゃなかろうか。漫画やドラマ、アニメetc……形を変えて度々使われてきたセリフだ。ラノベなんかでは「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」なんて題名のもあった。その、「桜の樹の下には死体が埋まっている」の文ではじまる散文詩の作者こそ、梶井基次郎だ。内容に関しては実際に読んでみて欲しい。著作権きれてるからすぐ読める。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/427_19793.html


 ついでにもうひとつの代表作「檸檬」の話もするので読んでくれ。というかこんな駄文を読む暇があるなら近代文学を読もう。最高だから。短編多いから。軒並み著作権切れで今すぐ読めるから。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/424_19826.html

 

 では以下「桜の樹の下には」「檸檬」を全員既読とみなして書き進める。ネタバレ注意。読んでないけどネタバレみたい?気持ちはわかるが読んでこい。たった数ページだぞ??

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読んだな?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大丈夫だな?????

 

 

 

 

 


“えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか——酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。”

抜粋: 檸檬 梶井基次郎

 

 そんな日を、あなたも経験したことがあると思う。どうしようもなく気分が沈んで、何も手につかなくなる日。私には、毎日そんな日が続いていた時期がある。JRどころかJKにすらならない頃、まだ友達もほとんど居なくて、毎日図書室の隅で息を殺していた頃の話だ。月並みな表現でいうならば、その頃の私には世界が灰色に見えていた。どんな美しい景色も、どんな感動的な話も、濁った水の中から眺めているようだった。
 その頃住んでいた家は桜並木のすぐ横で、春になるとベランダの外が薄ピンク色に塗り潰された。通学路の歩道も毎年花びらで覆われた。だから、春は目に入る色の数が極端に減るのだ。見渡す限り続く似たような作りの建物と、似たような枝ぶりのソメイヨシノ。春霞の水色と、建物の白色と、アスファルトと木の幹の黒と、桜のピンク。うららかな日差しに照らされて笑いながらかけていく下級生の笑顔。単純に簡潔に、「幸福」もしくは「平和」を具現化させたような景色である。その景色に、私はいつもどうしようもなく息苦しくなった。教室で、私はいつも楽しそうな笑顔の輪の外側にいた。誰とも話さなかった日の帰り道、馬鹿騒ぎするクラスメイトに見つからないよう歩いた通学路で、昨日の雨に濡れたピンクの花びらが黒い靴にこびりついて離れなかったのを鮮明に覚えてる。

 満開の桜は完全無欠である。日光を求め貪欲に広げられた緑色も、衰えを見せる茶色もない。大地にそびえ立つ幹の黒と、空へと咲き誇る薄いピンクのコントラスト。堂々たるシルエットはいかなる隙も見せない。桜、特に満開のソメイヨシノは、傷一つつかないダイヤモンドとか、錆びない金とか、そういったものが共通して持つ威圧感みたいなのを持っている。完全無欠な存在に、何もかもが欠けている私などという存在が、どうして近づけるだろうか。数色のみで表された平穏に私の居場所などどこにもなかった。「幸福」も「平和」も、私の日常を形容する言葉になり得なかった。

 どんなに美しかろうと、どんなに穏やかであろうと、私には灰色の冷たい世界に感じられた。満開の力強く見事なソメイヨシノを見る度に、その素晴らしさに感動できない自分が責められているように思えた。「綺麗だね」とどこかの誰かの言葉が聞こえる度に、私の灰色の世界を憐れまれているように感じた。桜が美しく咲けば咲くほど、私にはその姿を見る権利がないのだと思えた。私の目線ははいつも自分の足元に向いていた。黒い靴にこびりついた花びらは茶色く変色して、桜が散るまで靴底に挟まっていた。

 

“俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和なごんでくる。”

抜粋: 桜の樹の下には 梶井基次郎

 

 あの頃からだいぶ時間もたった。私は無事高校デビューを成功させ、ぼっちから脱却した。気の合う仲間もたくさん会ったし、一緒に笑い合える友達と馬鹿騒ぎだってした。毎年校門から桜並木を通って登校したし、花見に行ったり満開の桜の下で映画を撮ったりもした。

 

 桜の下に大義名分でもって近づいて、改めてその姿を見て、桜はちゃんと生き物だったのだと気づいた。ソメイヨシノって実は意外とカラフルだった。雌しべや雄しべの黄色、がくの緑や赤、幹は黒や肌色茶色や灰色なんかだし、黄緑や深緑の地衣類が張り付いている。枝にはところどころ若葉色の芽がつき、根は何者かに踏まれ白く傷をつけながらも、古い葉やふかふかの土を抱き込むように地中へ潜る。ものによっては枝が伐採された跡があったり、懐に大きな風穴を開けてるやつだっている。

 桜は生きていた。それも必死に。何十年も動かず、風雨に耐え、降り積もった傷を抱えて、必死に生きていた。その命をつなごうと花を咲かせていた。人為的に改良されそれが実を結ぶことなどないとも知らずに。考えれば思い至ることだし知らなかったわけではもちろんないが、なんだかやっと実感がもてたようだった。 いつの間にか私は、桜を恐ろしいと感じ無くなっていた。

 

 「結局ぼっちが友達できて桜を一緒に楽しめるようになったから桜が大丈夫になっただけでしょ」とか言われてしまえば何も言えなくなってしまう。そうじゃないと反論するだけの根拠を提示できない。しかし私には桜に対する感情の変化を「ぼっち脱却」って理由だけにしてしまうのは少し無理やりな気がするのだ。それくらい感情の変化は大きかった。それに味気ない。"感情"とか"感性"とかいうめちゃくちゃ抽象的な領域なんだからもうこの際よさげな理屈を信じたい。再現性も客観性も皆無だし、科学して証明することなんてできないんだから。

 

 厳密にいえば私と「桜の樹の下には」の主人公とでは、桜に対する感じ方が微妙に違う。ただ、桜に何らかの欠点を求める考えは共通している。なら彼にとっての「桜の樹の下の死体」は、私にとっての桜を見る感性と言える。言えなくても言う。その方がきっとずっと楽しくなる。

 

 私は絵を描き文字を書く人間なので、自分の感性が大好きなのは言うまでもないと思う。ことこれに関してはナルシストになる。いつもは自己肯定感低めだけど、こればっかりは本当に人格や知識・技術などからは切り離された部分だと思うので、Everyday自画自賛してる。絵を描くために生きてるので、もう命より大切だと言っても過言ではない。大好きで大切ならもうそれは恋人だ。

 

よって、私の恋人は今日もソメイヨシノの下に埋まっている。駅前の桜は、今は葉桜となっていた。

 

 そういえばウスバカゲロウ、別名アリジゴクは成虫になったあと、セミのように一日〜一週間で生殖だけして死ぬらしい。一体どれだけの個体が子孫を残せるのだろうか。本能に逆らって同性とくっついたり、一切生殖行動せずに浮遊し続けて死ぬやつらはどれくらいいるだろう。集団で飛翔して美しい虹彩となる彼らにも、はぐれ者のぼっちはいるのだろうか。いるなら何を考えてるのだろう。彼らには世界はどんな色をしているのだろう。

 

 

 

 

 蛇足だが、私にはもうひとつ怖いものがある。まんじゅうだ。