タピオカに3時間並ぶ人の自分語りブログ

タピオカに3時間並ぶようなJD(女子大生)の生態例

ものがかきたい

よくある「テスト前日に片付けがしたくなる」あれだ。

ものがかきたい。文字でも絵でもいい。かきたい。因みにテスト開始時刻まで7時間を切った。

何をかけばいいだろう、何がかきたいのだろう。「かきたい」という欲求こそあれ、ペンを手にした瞬間真っ白い紙にどう線を引けばいいのか途方にくれてしまう。当然テスト前日でそんなことに時間を使う暇などないので、白い紙は端に追いやってしまう。

このところずっと時間が無い。いや、あるにはあるのだが数時間の暇があるとついついバイトと車校と部活の用事を詰めてしまう。あとFGOの映画。最後にまともに絵を描いたのっていつだっけ。文章は最近書いた。FGOの映画の感想ポチポチ打ってたら気づいたら8000字とかになってた。やば……

 

なんだかんだ書き連ねてたら300字を超えた。レポートで出されたら地味に面倒な文量だ。文字を書いたにカウントされるだろうか。いや、カウントしないと明日のテストが真面目に詰むんだけれど。……カウントしようか。

高校生の時から相変わらず、時間の使い方が下手だと思う。物事の優先順位を付けるのが苦手な上に自分の力量をイマイチ把握できてないせいで、常に忙しい。さすがに昔のように「プラナリアになりたい……分裂したい……」って呟くほどの切実さは無くなった。が、やりたいことにあちこち手を伸ばして、やらなきゃ行けない事も積み上がって、キャパ超えて部屋が荒れるのは治らない。どうしようもない。

こればっかりは経験とか工夫とかそういうものでどうにかするしかないので、明日のテストを何とかしたあと大いに反省しようと思う。

 

よし、これで700字近くだ。だいぶ書いた。満足した。

 

 

ぬるくなったアボカド

 アボカドが苦手だ。

 

 前までは大好きだったのだけれども、ある時から苦手になった。味は今でも好きだ。食感も。ただ、アボカドという存在そのものが、私に胃の奥底が重くなるような感覚を与えてくるのだ。出来れば思い出したくない出来事、たぶん「トラウマ」って言葉が一番しっくりくるような苦い思い出。

 アボカドは、私の大学受験の象徴だ。

 

 簡潔に結果だけ言うと、現役の大学受験は全落ちだった。一浪して妥協に妥協を重ねてそれでもなお全落ちリーチかかって、なんとかギリギリ現在の大学に入学した。何度すり替えたかわからない「第1希望」。国公立前期で合格した現在の大学は、それでもまぁ好きな大学だ。コロナのせいで思うようにいかないとはいえ、部活にバイトに授業に充実した大学生活を送れている。

 私の大学受験は失敗だったと思う。けれど今はもう未練はない。

 

 ただ1つ、今でもたまに夢に見るほど、悔しくて辛かった受験がある。現役国公立大学後期受験、「デッサン」の実技試験のあった受験だ。

 

 大学名とか詳しい配点とか仕組みとか、今はもうできる限り思い出したくないので省略するが、とにかくその受験は「デッサン」の試験があった。正確にはなんか違った科目名だったけど、調べたくない。私はその受験で、モチーフを紙に鉛筆で描写することを求められていた。

 数人が円になるように配置されたイーゼル、円の中心に置かれていたのは木製のブロックたちだった。たぶん10個くらい乱雑に積まれていた。受験者たちが配置に着くと、試験問題の書かれた紙と、アボカドがそれぞれ配られた。

 

「アボカドと木製ブロックを組み合わせて描写しなさい」

 

 多分そんな感じの問題文。制限時間は確か3時間とかそんなんだったと思う。手渡されたアボカドは、冬の冷気に晒されてひんやりとしていた。緊張と興奮で汗ばむ手のひらに、硬く凸凹とした表面が心地よかった。

 

 私は絵を描くのが好きだ。

 

 人よりも上手くかけるという自負もあった。

 

 今まで1人で練習してきたとおりに、全力で描けば良いのだと意気込んだ。

 

 親の反対もあって美大受験や画塾通いはできなかったけれども、どうしてもデザイン系の分野に進みたかった。好きなものを追い求めて、人生全部を使って極めてみたかった。どんなに厳しい道でも良かった。努力が1番報われない分野なのもわかってた。それでも、頑張ってみたかった。

 

 確か描き始めて半分くらいして、違和感に気づいた。芸術系の実技試験はカンニングなどできない性質上、他の受験生の"答案用紙"が丸見えな座席配置になってることが多い。自分の「積まれた木材の上にアボカドが1つ乗ったデッサン」の狂いを確認するため、伸びをして全体像を眺めた時、視界の端に写った他の人の絵と私の絵が、全く別のものであることに気づいた。

 

 「異空間を飛ぶアボカドとブロック」

 「輪になって並ぶアボカドとブロック」

 「複数のアボカドとブロック」

 

 その絵たちはどう見ても、「デッサン」ではなく「デザイン」だった。

 慌てて問題文を確認すると、確かに「描写しろ」とはあっても「デッサンしろ」との記述はなかった。私の絵は、「デッサン」だ。私のように「デッサン」をしている受験者もいたが、人数は多くはなく、技量は「デザイン」をしている人たちより明らかに劣っていた。

 体温が下がっていくのを感じた。冷や汗が滲み、左手に握ったアボカドをじんわりと濡らした。アボカドはもう、私の体温と同じくらいぬるくなっていた。

 私は間違えた。問題文を読み間違えた。いや、それだけじゃない。受験する試験すら間違えたのだ。「デザイン」ができている人達は、おそらく美大落ち勢だ。この受験は画塾に通い、受験絵画の訓練を積んできて、それでも美大に受からなかった人たちをターゲットとした入試だったのだ。1から描き直す時間はもうなかった。緊張も興奮もなかった。絶望と焦りの中で、必死に打開策を探した。意識して深呼吸をしながら、ぬるくなったアボカドを見つめた。木製ブロックはどうしようもない。いじれるとしたらアボカドの配置だけだった。どう考えてもどうしようもなかった。とってつけたように、アボカドをとにかく紙面全体に降らすことにした。

 

 はっきりいって酷い出来だったと思う。デッサンを時間をかけて練習してきた人には、私のデッサン力は遠く及ばない。ましてや構図すらまともにできていないのだ。試験終了の合図とともに、私は不合格を確信した。回収されるアボカドは、手汗でじめじめしていたと思う。

 あのアボカド、誰かが食べるのかな。

 試験官の人が食べるならちょっと可哀想だな。

 少しでも気が緩むと泣いてしまいそうだった。

 「努力が報われない」とかじゃなかった。

 

 私は、スタートラインにすら立てていなかった。

 

 会場から駅まで何も喋らなかった。入試に付いてきた母が慰めようとしたのか何か色々話しかけてきたけど、何もしゃべらないで欲しかった。心の中がありえない「もしも」で溢れて、悔しさとつらさと、やり場のない怒りでいっぱいいっぱいだった。もしも画塾に通えていたら、もしも美大受験を目指していたら、もしも母や父が反対していなければ、もしも、もしも、もしも。

 ぬるいアボカドの感覚がいつまでも左手に残っているようだった。

 あんなにアボカド大好きだったのに、これからは姿を見る度にこのことを思い出すのだ。私はこれから1年間、受験生を続けなければならないのだ。苦い思いが込み上げてきた。つらかった。全てを投げ出してしまいたくなった。

 

 この出来事が尾を引き、その後の1年間メンタルガッタガタだった。結局秋くらいで心が折れて、センター試験も大敗して、妥協に妥協を重ねてデザイン分野すら諦めて現在に至っている。デザインのデの字もない学部、「デザインなんて必要ないです」と豪語する教授のいる学科で、ゆるゆる大学生活を送っている。

 

 今も絵は好きだ。でも絵を描こうとするとたまにあの日がフラッシュバックしてペンを持てなくなる。今も絵やデザインを仕事に出来たら楽しいだろうなとは思う。でもあの時スタートラインに立てなかった私が、今後あそこから駆け抜けてる人達相手に同じ土俵で戦うことを考えると気が遠くなる。

 アボカドを視界の外に追いやりながら、今日も大学生活を楽しんでいる。

小説を書いた話

今回はくそほど短いよ

ちょっと前に4000字以内のショートショートの小説コンクールに作品を提出した。結果発表は来年2月だけど落選したらブログに載せるかも。

たった4000字なのに本当に大変だった。何度も何度も読み返して、友達も巻き込んで推敲して、何時間も何日もかけて、やっとこさ書き上げた小説。正直これが面白いのかどうかはよくわからないけど、私の好みどストレートなのは確かだった。よって私にとっては世界一の小説になった。

物語を書くのは多分これで4回目だけど、ちゃんと完成させたのは初めてだった。もしこれで受賞出来たらすごいね!正真正銘処女作が認められたってことになるね!臨時収入入ったらどうしようかな!まぁどうにせよ、私が読みたかったから私のために書いたので、目的の9割5分は達成できてしまった。

正直、物語を書くのはほんとしんどいし、世の字書きさんまじ神かよって思ったし、自分も同じように継続してできるか聞かれたら怪しい。怪しいけど、物語を書き上げた達成感と書き上げた成果物は最高だった。最高すぎてまた書いてもいいかもしれないって思った。喉元過ぎればなんとやら。

 

もしも私が物語を書き続けられたら、

もしも私の物語が認められたら、

もしも私の物語を街角で見かけるなんてことがあれば、

その時はどうぞよろしくお願いいたします。

PNは「あいう」ではじまります。

久々のブログだよ。絵について。

 本当に久々だね。1年ちょっとぶり。

 正直このブログアカウント消そうかとも思ったんですけど消しそびれた。消しそびれたのでどうせならもうちょっと続けてみようと思う。書けてないネタもあるしね。いやどうだろう分からないこれが最後になるかもしれない。

 

この一年ちょっと、受験期後半になってメンタルブレイクして志望校下げたり、センター大失敗して志望校下げたり、本番どこにも受からなくて第n志望に入学が決定したりしてた。すごい!現役の散々な戦績から学習してないぞ!!まぁあの絶望的な成績から現在就職率がバカみたいに良い地方理系国立大学の学生になれたので及第点。もう志望校変えすぎて第何志望だったのかすらもう自分でも把握してない……一応前期で受験したのにね……。分野もかすりもしないとこにいる。デザインのデの字もない。dの字すらない。なんてこった。ついでにずっとしたかった一人暮らしも出来なくなった。祖父母との同居だよ。8年まともに会ってなかったからそりゃあもう大変だよ。毎日異文化交流している。

 

 受験生を経て現在に至るまで、まともに絵を描くことができてなかった。試験対策の簡単なデッサンとかノートの端の落書きとかはちょこちょこ描いてたけど、ちゃんとしたのは全然描いてなかった。ずっと「勉強しなきゃ」って後ろめたい気持ちがあって、「絵を描く暇なんてない」って制限してきた。中学の頃に絵を描き始めてからこんなに長い期間絵を描かないってのがはじめてで、最初はすぐに耐えられなくなると思っていた。必要に駆られて絵を描き始めて、「絵を描けないなら生きてる意味なんてない」って思っていた人間なので、絵を描かずに生きていく人生なんて想像できなかった。ところがまぁなんだかんだ生き延びてしまったので驚きだった。

 

 私が絵を描き始めた理由は言ったことあっただろうか。なかった気がする。ダメだ今まで書いてきたブログの内容を思い出せない。今はてなに直書きしてるから確認するのもめんどい。いいや書くね。2度目になってたらごめんね。

 

 私が絵を描き始めたのは、現実から逃げるためだった。中学の頃の私はそれはもう鬱々とした日々を過ごしていた。3年間自殺せず生き延びたのが奇跡のように思う。家も学校も安全地帯では無く、現実を直視し続けることなんて到底できなかった。誰にも助けを求められなかったし、どこにも逃げ場なんてなかった。じゃあ現実じゃない所に逃げよう!ってことで選んだのが絵だったのだ。正直、現実じゃないどこかに行けるならなんだって良かった。小説でもアニメでもネットでも。字を書くのでも良かった。ただ図書館のめぼしい本はたいてい読み終わってしまっていたし、アニメやネットは家でしか見れないからダメだった。1度小説を書こうとしたこともあったが、必死に書いても二、三千字にしかならなくてやめた。消去法の結果選んだのが絵だった。当時「1番活動時間が短い」って理由で美術部部員やってたのも都合が良かった。絵を描いてる間は死にたくなるような現実のことを忘れられる。ここでは無いどこかの世界を描くことだけに集中出来る。私が死なずに済んだのは絵だけじゃない色々なものに助けられたからだけど、私が生きようと思えたのは絵を描くことができたからだった。

 

 という訳で、絵を描かずに生き続けるなんてことは想定外の事態だった。絵を描くために生きてたのに将来のために絵を描けないなんて本末転倒もいい所だった。一応受験生の間はって期間を決めてたとはいえ、1年だったはずが2年に延び、デザイン系志望のはずがデザイン関係ない方向にズレてしまっていったのだ。どこかで限界が来ると思った。ところがどっこいなんとかなった。ちょっと、いやかなりしんどかったけど死ななかった。それでようやく、「もしかしたら私は絵がなくても生きていけるのかもしれない」と思い至った。驚いた。衝撃だ。で、絵が描けなくなった。

 

 絵が描けなくなった理由はこれだけじゃない。前述した受験期後期メンタルブレイクの内容とか色々、それはもう本当に色々な理由が絡まってこんがらがって自分でもわからないくらい複雑怪奇なことになってる。よってその全貌が掴めない以上詳しくは言えないけど、原因の一端が「自分は絵がかけなくても生きていける」と気付いてしまったのことだったのは確かだ。受験生じゃなくなって、春休みを経て大学生になって、遠隔授業のあれこれでかなりの時間があったにも関わらず、絵が描けなくなった。しょうがないので日がな一日Twitterとイチャイチャして過ごした。もう虚無しかない。受験期も大概虚無だったが受験終わって今に至るまでも虚無だった。そんな虚無の半年弱を過ごして、ようやく、「私は絵がなくても生きていけるが、絵がないと人生がつまらない。」ということに気付けた。

 

 ペンとか鉛筆とか色鉛筆を散らかして、画用紙の前に数時間座り続けて、描きたいものを描けるように試行錯誤を重ねる。参考資料の山を作って、鏡で自分の体を観察して、時には紙をぐるぐる回して眺める。描いても描いても本当に描きたいものにはたどり着けない。悔しくてしんどい思いをしながら線をひいて色を重ねる。それで時々上手くかけたら嬉しくてしょうがなくなる。

私はそういう作業が好きだと自覚した。

私は、絵を描くことが好きだ。

 

今私は久しぶりに絵を描いている。「人間の骨格わからん」「色の塗り方わからん」「どうやって描くんだ……どうやって描いてたんだ自分……」って唸りながら描いている。楽しくてたまらない。「絵がかけなくなった」つったって落書きくらいは描いてた。でもそんな自由帳に描く落書きとかじゃなく、途中で投げ出さず、一日ずっと描き続けるのが楽しい。妥協せずちゃんと自分の描ける最大限でもって必死に描くのは本当に久しぶりだ。楽しい。本当に楽しい。

 

 叶うことなら一生絵だけを描いて生きてみたかったと思う。それが叶わなかった今の進路は、正直今でも深く考え出すとしんどくなる。割り切れないまま割り切ったつもりになって進むしかないと思う。何度挫折して立ち止まろうが、選びたかった道を選べなかろうが、人生は終わってはくれないのだ。それならきっと楽しい方がいい。死にたくならなかっとことを怖がるなんてしなくていい。「絵がなくても生きていける」ってのはきっとそれだけ現実が楽しくなったってことだから、楽しい現実と楽しい絵と生きていこうと思う。多分これからも何回も転けて迷って右往左往するだろうけど、相変わらず遅筆だろうけど、マイペースに絵を描いていこう。

某大学AO入試実技(作文)試験再現回答【再掲】

 H31年度某大学のAO入試実技試験の再現回答再掲しときます。答案の後の解説もどきもAO直後書いたやつだから調子乗ってるよ。だいぶ見苦しいよ。見るに耐えなくて見直さずにのっけてるよ。

 ちなみに二次試験成績開示は三段階評価の最低ランクでした。センター爆死の時点で実技満点とっても不合格だったから当然だね。

(センター:実技=2:1)

 

 

 

問一

 ペットボトル、ティーポット、りんごを描写しなさい。この時ペットボトルはアルミホイルで形がわかるよう完全に覆うこと。

 描写対象物は被っても良いが、その形がわかるよう配置すること。

 


(略)

 

 

 

問二

 問一でペットボトルは完全にアルミホイルで覆われている。よって直接見ることは出来ない。私達はアルミホイルの形からペットボトルが中に包まれていると考える。それは本当にペットボトルがあるといえるのだろうか。もし今夢を見ているとすると、ペットボトルのみならずりんごやティーポットも現実世界には存在しないことになる。この世界は人間が知覚し脳内に構築したものでしかないともいえる。

 以上のことを踏まえて、「描画対象物は存在する」といえるか。あなたの考えを1000字以内で論じなさい。

 

 

 

だいぶうろ覚えですがこんな感じ。設問的にペットボトルが主人公っぽかったのでペットボトルをセンターにして描いた。いやもうデッサン楽しいね楽しかった。

 

 

 

↓小論(再現)

 「描画対象物は存在する」といえると考える。なぜなら私たちは日常的に「世界は存在する」と考えているからだ。

 まず、私は存在する。「我思うゆえに我あり」という言葉が表すように、私が今存在していると考えているからだ。私が実は人工知能で、考えていることが錯覚である説も完全には否定できない。が、設問より世界を知覚する人間の存在がわかるのでここでは否定できるものとする。私達は科学技術を利用して生活している。科学は「世界は存在し、数値化して分析できる」ことを前提として成立している。つまり私達は「世界は存在する」と考えながら暮らしているといえる。また世界が存在すると仮定した場合、世界の一部を物理的に構成する描画対象物も存在する。

 ここまでで「世界は存在する」と考える私たちと、世界が存在すると仮定したときの描画対象物の存在が確認された。次に世界の存在を確認したい。しかし「世界5分前説」を否定できないことからわかるように、世界の存在を証明することは不可能だ。そこで世界の定義から考え直したい。

 私は以前友人たちと「スワンプマン」という思考実験について数時間話し合ったことがある。ある人間が沼の前で雷に打たれて死んだ。同時に未知の力で沼から同じ人間が生まれた。原子の位置に至るまで再現されたその人間は、記憶や趣味など全てが同じだった。その人間は何事もなかったように沼をあとにする。この人間は沼に来る前と来たあとで同一人物といえるだろうか。私たちの出した答えは「いえる」だった。その人をその人たらしめるのは、肉体ではなく人格であると考えたのだ。私や友人含め全世界の人間がスワンプマンに入れ替わったとしても、世界は変わらないと結論づけた。

 これは人間以外の生物や無機物にもあてはまると考える。もし世界の全てのものにスワンプマン化現象が起こっても、世界は何も変化しない。世界を世界たらしめるのはそれを認識する私たち人間だ。「世界は存在する」と考える私たちが存在する以上、世界は存在する。したがって「描画対象物は存在する」といえるのだ。

 これはあくまでも限定的な世界の存在証明である。よって設問の鍵かっこは必要不可欠だ。

 

 

 

推敲ろくにできない紙原稿で、デッサンしながらの構想2時間、書き上げ1時間。理論にめっちゃ穴あるだろうし筋も通ってそうで通ってない気がしてる。でもまぁ他の人に比べたら書けてるだろ!!

 

 

 

▶「我思うゆえに我あり」

 


 デカルトの有名なあれ。書いてる最中は「誰だっけ〜ニーチェだっけ〜」ってなってました名前出さなくてほんとよかった。AIdentityがとっても役に立った。るっちょくんはじめ3Bのみんなほんと大好き!!!!!

 


 以下wikiより引用

 全てについて疑うべし(De omnibus dubitandum)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当に存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。

 


wikiのリンク

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/我思う、ゆえに我あり

・AIdentityのリンク

https://youtu.be/TCGSLP1T9Sw

 

 

 

▶「世界五分前説」

 


 割と有名な話なので知ってる人も多いはず。はず。一般的には「世界五分前仮説」って言われてるそうですね間違えて覚えてた。意味は通じるしセーフ。涼宮ハルヒの憂鬱はこれ。2年の夏に参加した夢ナビライブで哲学の教授(?)が「五分前仮説を否定することはできない」って断言してた。色々印象的すぎて忘れられずにいたら役に立ったよ!!前にお兄ちゃんや親にこれに関する自分の考えを伝えようとして1mmも伝えられず、めっちゃ悔しい思いをしてた。今回書き起こしたやつ見せて伝えられたのでリベンジ成功です👍

 


 以下wikiより引用

 世界五分前仮説(せかいごふんまえかせつ)とは、「世界は実は5分前に始まったのかもしれない」という仮説である。

哲学における懐疑主義的な思考実験のひとつで、バートランド・ラッセルによって提唱された。この仮説は確実に否定する事(つまり世界は5分前に出来たのではない、ひいては過去というものが存在すると示す事)が不可能。

 


wikiのリンク

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/世界五分前仮説

 

 

 

▶「スワンプマン」

 


 去年の冬に🍊🐦✈️と遊んだクトゥルフTRPGシナリオ。

 スワンプマンについての詳細、というか僕の小論自体がシナリオのネタバレなので、詳しい解説はしません。リンク載せてる動画を見てくれ。面白いから。大丈夫、僕のまどろっこしい文をここまで読めた君ならきっと気に入る。

 クトゥルフは知ってる人も多いよな!!ラブクラフトって小説家が書いた「Call of Cthulhu」って小説からはじまった、架空の神話体系。邪神様がうじゃうじゃいる。クトゥルフTRPGはそんな世界でテーブルトークRPGするゲーム。

 TRPGではざっくり言うと、自分のアバターとなるキャラクターを作って動かして、事件を解決したり化け物と戦ったり怪奇現象から帰還したりを目指す。例えば机調べて情報を集めたりするんだけど、事前に決めておいたキャラクターの能力値で「調べる技能(目星やら聞き耳やら図書館やら)」が成功するかどうかをサイコロで決めていく。失敗したら机壊しちゃったりしちゃう。割とよく鍵穴が壊れる(初期値チャレンジ:成功率1%の犠牲になったんじゃ……)。情報や事件の進行管理をするのがゲームマスター

 あんなめっちゃめんどくさいシナリオのゲームマスターやってくれた🍊ちゃん、本当にありがとう。今でもちょくちょく思い返すくらいにはとっても好きな回だった。話し合ったとか言ってるけど本当は道中ほぼほぼ意見割れずじまいだったんだよね……。充分楽しかったけど意見割れてたらスリリングだったのになぁ。小論で示した結論は僕が都合のいいように細部を改変してます注意。ちなみにシナリオ中、僕のキャラのせいで✈️のキャラの高級車のドアが大破した。正直すまんかった。

 


・この動画見ればだいたいTRPGの楽しさがわかるよ

https://youtu.be/_6PupA6-zak

・スワンプマンのシナリオ元動画

ゆっくり×ぷよキャラで冒涜的なTRPG実況第一話 http://nico.ms/sm17349615?cp_webto=share_others_iosapp

・そのシナリオでめっちゃ意見が割れてる楽しい動画(未完)

【CoCリプレイ】沼男《スワンプマン》は誰だ? 第0話【うごクトゥルフhttp://nico.ms/sm25832985?cp_webto=share_others_iosapp

猫が嫌いだ。

 

 

 猫が嫌いだ。あの愛くるしくて基本的には無害な生き物が嫌いだ。日がな一日惰眠を貪り、日向で怠惰に伸びをする姿が嫌いだ。半径数メートルの人間を否が応でも振り向かせ、接する人間全てから強制的に猫なで声を発させてしまう。上目遣いでこちらを覗き込み「にゃーん」と鳴く姿は、魅了の魔力かなんかを持ってると思う。猫が嫌いだ。あいつら自分自身の可愛さを自覚していやがる。

 

 

 そもそも人類猫好きすぎると思う。ありとあらゆる商品に猫のモチーフがあしらわれている。雑貨はもちろん衣類、食器、化粧品。やろうと思えば猫まみれの生活ができてしまう。猫カフェとかいう金を払って猫を愛でる商売が成り立っちゃってるし、猫との生活を描いた書籍は日夜大量に出版されている。小説や絵画など、古今東西様々な作品にも登場する。その勢いたるや、街角で「猫は嫌いだ」なんて叫ぼうもんなら生きて家には帰れないのではないかという程だ。いや、さすがに言い過ぎか。

 

 

 まぁ私の家でも飼い始めたんだけども。

 

 家に帰ると猫がいる生活がはじまって、半年を過ぎただろうか。正確にいえば母の猫である。私は乗り気ではなかったのだが、事後報告でなし崩し的に飼い始めていた。実を言うと私が猫を決定的に嫌いになったのは、猫を飼い始めてからだったりする。思ったよりうるさくて、思ったより毛が抜けて、思ったより意思の主張が激しいのだ。人間が思い通り行動をするまで鳴き続ける。足元にまとわりつく。朝は4時には起こしてくるし、部屋にこもればドアの前でギャン鳴きする。そのくせちょっと撫でてやればすぐに喉を鳴らす。元野良の根性はどこに置いてきたのか。無警戒にこちらに腹を向ける。生殺与奪を握る、自分より体の大きな生き物にそれはちょっとないと思う。もっとツンケンして欲しい。チョロ過ぎて不安になる。

 


 そもそも私は哺乳類飼うのがあまり好きではない。小学生のころ誕生日に買ってもらったハムスターを看取ってからというもの、

「本当にあの子は幸せだったんだろうか」

「うちに来ない方が幸せな人(ハムスター)生だったんじゃないだろうか」

「ちゃんと寿命まで生きたからと言って幸せであったとは言えないんじゃないだろうか」

「というか人間も哺乳類なのに同じ哺乳類を飼うことは許される行為なのか?」

……などという考えから抜け出せないでいる。たかだか数十年しか生きない人間が、他種族の生命の責任を背負えるのだろうか。愛玩のために彼らの一生を縛り付けていいのだろうか。彼らは何故か無警戒にこちらを信用してくるのだ。その信用を裏切りはしないか。

 


 「生命の責任」なんて言ったが、ペットを飼うな、などと主張するつもりは毛頭ない。また、多様な食文化を否定するつもりもない。日本人はクジラを食べる。同様にペットとして飼われるような動物を食べる文化もある。それらは理解出来なくとも尊重はされるべきだ。生きるということは命をいただくということだ。今流行りのヴィーガンになるつもりもないし、「いただきます」をちゃんといえばすむ話だと思う。

 

 ただ、自分が飼い主となった場合、彼らを幸せにできるという自信が無いのだ。食肉の理論で言えば「そこにいてくれること」を感謝すればすむ話である。しかし私には、四六時中彼らを全力で愛し続けることは出来ない。衣服に着く毛も、餌や糞の世話も煩わしい日がある。あざとい仕草に苛立つ日もある。そういう日に「いない方がよかった」なんて思ってしまう瞬間が、絶対にないと断言出来ようか。身近なぶん、彼らに返す感謝量の適正値がわからなくなる。漠然とした罪悪感がのしかかる。それに耐えられない。そんな私が彼らを好きだと言い切ることなど、到底できやしない。

 

 だからあえて言う。私は猫が嫌いだ。母が飼ってる猫も含め、嫌いだ。彼らが幸せに生きるサポートは出来る限りするけれど、できれば近寄ってきて欲しくない。そんなに信頼しないで欲しい。あの子は私の猫ではない。母の猫だ。だから許されたい。私は猫が嫌いだ。

 

 

 

 という訳で、つまり、創作物の中の猫なら案外好きだったりする。絶対にこちらからは手を出せない猫だ。かわいさしかない。あとただ単に人間に好き勝手される存在じゃなかったりするし。

 傷物語での羽川翼に憑いた怪異とかがいい例だと思う。障り猫。生命としての猫の原型留めてないじゃんとか言う意見は聞かなかったことにする。というかブラック羽川は良い。とてもいい。かわいい。最高。

 というか羽川翼が好きだ。その口癖からしていい。「何でもは知らないよ。知っていることだけ」って、知らないことに出会ったらまず調べるっていう彼女の姿を如実に表している。この一言に彼女のキャラクター性が詰まっている。

 話が逸れるが、阿良々木暦の「友達はいらない 人間強度が下がるから」もいい。共感ができるわけではないが、言いたいことはわかる。そしてそういうこと言っちゃう阿良々木暦がいい。

 忍野メメの「助ける?そりゃ無理だ。君が勝手に一人で助かるだけだよ。」も、彼のキャラクターが滲み出てる。最初読んだ時は意味不明だったけど、最近わかるようになった。要はものすごく無責任なのだ。「助けた」という行動の責任すら負わない。感謝されない代わりに、その行動で生じた何らかの不利益も無視している。「あなたが助けたせいで!」なんていう非難をさせる隙がない。好き。その上ちゃっかりお金は請求するのだから最高だと思う。物語シリーズで1番好きなキャラクターかもしれない。

 


 閑話休題

 


 最近ではTwitterでも猫動画とか写真とか大量に流れてくる。Twitterの猫画像は画面の向こうに猫が居るのでアウトだ。しかもツイート主がパクツイアカウントだったりする。それも猫嫌いに拍車がかかる。無責任なのは創作物の中だけにして欲しい。猫のかわいさを食い物にしないでくれ。猫はSNS映えのために生きてるんじゃないぞ。しかもちゃんと面白いのがまた腹が立つ。この前なんか猫科4種くらいが伸びをしている画像が流れてきた。虎とか豹とかに混じって猫。表情筋を的確に攻撃してくる。良くない。

 

 

 

 


 虎といえば今日の授業で漢文の先生がこんな話をしていた。

 

 

 先生の知り合いに商社で出世した人がいた。どれくらい出世していたかと言うと、中国勤務時には運転手・料理人付きの豪邸に住んでいたくらいだ。ちょっと想像が追いつかない。その人が中国に住んでいた頃の話である。

 


 その日は家族で外出していた。家族といっても子どもは受験の時期で日本にいたため、夫婦水入らずだ。運転手付きの車で優雅に帰宅途中、元々悪かった天気がひどい嵐になっていった。そこで料理人に、「大雨の中買い出しに行くのも大変でしょう。どうぞ家にある食材で適当に作ってください。」と連絡した。

 帰宅後、彼らに出されたのは豪勢な肉料理だった。

 


「見たことない肉だ。いったい何肉なんだ?」

「虎です」

 


虎の肉といえば『体の悪い部分と同じ部位を食べればたちまち健康になる』と言われ、漢方などでも重宝される。とても貴重な肉だ。それをこの料理人は隠し持っていたのだ。

 


ふと、妻はあることに気付いた。いつもなら擦り寄ってくる飼い猫がいない。

「猫はどうしたんですか?」

もうおわかりだろう。料理人は答える。

 


「あなたのお腹の中ですよ」

 

 

 

 


「中国では現在『虎の肉』とは『猫の肉』を指します。ちなみに奥さんはそれを聞いてさすがに気絶したそうです。また『龍』と書いて『蛇』を指したりもします。先生もレストランで……」

 


…………変な声が出た。話が全く頭に入ってこない。脳裏を駆け巡るのは、足元にすりよる猫、上目遣いでこちらをのぞき込む猫、すぐに腹を見せる猫、無限に毛をまき散らす猫、そして、美味しそうな肉料理。

 


 あぁ、人間強度が下がるとはこういうことなのだ。

 

 

 

 

 

 

 


私は猫が嫌いだ。

 


漢文の先生も嫌いだ。

恥の多い人生をおくっています。


 3本書き溜めたと言ったな?あれは嘘だ。

 

 1本目を投稿した時点で完全に書き上がっていたのは2本目まで。あとの2本は題名とプロット(という名の言いたいこと箇条書き)だけの状態だった。というかそういうのが十数本あったので「あと文章にするだけだし実質2本に数えられね?」と見切り発車した。早く誰かに読んで欲しかったしあわよくば「すごい」って言われたかった。大丈夫すぐ書けるそれより桜のやつを桜の季節のうちにあげたい、と自分に言い訳をしていた。馬鹿でしかない。阿呆なので文章にすることが1番大変なのだとわかってなかった。わかったつもりになっていた。

 

 言いたいことはいっぱいあるのに手が足りない。やりたいことはいっぱいあるのに体が足りない。朝遅刻ギリギリに家を飛び出して、必死に授業と予習復習をこなして、帰る頃にはもう夜で、ちょーとゆっくりご飯食べたりしたらいつの間にか深夜で、翌朝当たり前に寝坊する。自分のキャパシティを把握した気になってるから、キャパオーバーにあれもこれもと手を出してしまう。当然全て中途半端なままに時間だけすぎる。限られた時間を最大限有効活用できる化け物は世の中にごまんと居るのだ。彼らが日進月歩する中、私は毎日足踏みしてる。気づいたら周回遅れになっている。先週の私とも、先月の私とも、1年前からも何一つ変わらずに、何一つ成長せずに生きている。何もかもが足りなくて、無いものをあるように取り繕うことだけ上手くなって、毎日毎日ヘラヘラしてる。精神的に向上心のない者はばかだ。 そこら辺を歩いてる蟻の方が私よりずっとばかではない。

 

 

 

 焦りは当然ある。ただただ焦りだけが募って身動きができなくなる夜もある。そういう時になるとどんな文章を書いても駄文を極める。具体例としては上記の文が最適だろう。実はこんな調子の文章が、更にネガティブに加速しながら千字ほど続いていた。あまりにネガティブすぎて収集がつかなくなったし、何より第三者に見せるのははばかられる内容だったのでバッサリ割愛した。今から二、三日前の話だ。

 

 魂なぞ実体を持たないので、私というそんざいはどう頑張っても肉体に縛られる。肉体はこの世界に縛られる。ならば低気圧やら諸々の影響により、健康状態や精神状態に波があるのはしかたのないことだ。だがこの波が、たまにものすごく邪魔くさく思えてしまう。ネガティブで鬱々してるのは何かと疲れるし、日常生活のあらゆる場面で支障をきたす。しかも最中は自覚がない。数日ほど「あぁやっぱり私はどうしようもないなんの価値もないダメ人間のクズだったのだ」とぐるぐる鬱々して、波が過ぎ去るとようやく「病み期やんけ」と自覚が持てる。面倒だ。色々としんどい。もういっそ脳みそのデータをスキャンしてネット上で生きられたらどれだけ良いだろうかと思う。

 


 正常な思考をもってしても、私は特段優れた人間であるとは言い難い。井の中の蛙どころかミジンコあたりが妥当であるとは思ってる。どこにでもいる凡人。狭い世界の中でカエルに怯えて、大海のサメやらシャチやらの存在すら知らず、波に流されている。未来に光なんて全然見えないし、常に精神的向上心を持つことなんてできないばかでもあると思う。

 でもまぁそんなこと、今にはじまった話ではない。十数年ずっと神童にも天才にも秀才にもなってこなかった。目の前にはずっと高い越えられない壁があった。ずっと誰かに迷惑をかけながら生きてきた。そんなでも振り返れば、多少は身につけてきた知識もあったし、誰かが認めてくれたり褒めてくれることもあった。持久走のタイムは伸びたし、身長も伸びた。数年単位でならちゃんと成長してる。だいたい幼少期から「マイペースで感受性豊か」とかって評されてきた人間が、集団の先頭付近で走り続けるのは至難の業だ。そんなことして途中でバテるより、ちゃんと自分のペースを守って最後に帳尻があってたらいい。開き直った方が、細かいことですぐ凹むネガティブ根性とバランスが取れる。マイペースも、豊かと評された感受性も、今のとこ集団で足並み揃える時に足を引っ張ってばかりだ。でももう知らない。私に適合しない社会が悪い。

 

 マイペースに無駄なことをぐるぐる考えながら2歩進んで3歩下がるような進み方をするのが私だ。些細なことですぐ凹むのが私だ。他のすごい化け物みたいにロケットスピードで日進月歩なんてできないのが私だ。欠点を埋めるのも、未来を見通すのも時間がかかる。それでも自分の存在を否定せず、ちゃんと歩いていきたい。恥だろうとばかだろうと、そういう面を受け入れないと改善すら出来なくなる。どうせ少なくともあと数十年はこの肉体から抜け出せない。ならただ鬱々してるんじゃなくて、自分のことをちゃんと知りながら、自分の道を踏みしめたい。

 

 「ゆっくりでも止まらなければけっこう進む」ので。