タピオカに3時間並ぶ人の自分語りブログ

タピオカに3時間並ぶようなJR(女子浪人生)の生態

猫が嫌いだ。

 

 

 猫が嫌いだ。あの愛くるしくて基本的には無害な生き物が嫌いだ。日がな一日惰眠を貪り、日向で怠惰に伸びをする姿が嫌いだ。半径数メートルの人間を否が応でも振り向かせ、接する人間全てから強制的に猫なで声を発させてしまう。上目遣いでこちらを覗き込み「にゃーん」と鳴く姿は、魅了の魔力かなんかを持ってると思う。猫が嫌いだ。あいつら自分自身の可愛さを自覚していやがる。

 

 

 そもそも人類猫好きすぎると思う。ありとあらゆる商品に猫のモチーフがあしらわれている。雑貨はもちろん衣類、食器、化粧品。やろうと思えば猫まみれの生活ができてしまう。猫カフェとかいう金を払って猫を愛でる商売が成り立っちゃってるし、猫との生活を描いた書籍は日夜大量に出版されている。小説や絵画など、古今東西様々な作品にも登場する。その勢いたるや、街角で「猫は嫌いだ」なんて叫ぼうもんなら生きて家には帰れないのではないかという程だ。いや、さすがに言い過ぎか。

 

 

 まぁ私の家でも飼い始めたんだけども。

 

 家に帰ると猫がいる生活がはじまって、半年を過ぎただろうか。正確にいえば母の猫である。私は乗り気ではなかったのだが、事後報告でなし崩し的に飼い始めていた。実を言うと私が猫を決定的に嫌いになったのは、猫を飼い始めてからだったりする。思ったよりうるさくて、思ったより毛が抜けて、思ったより意思の主張が激しいのだ。人間が思い通り行動をするまで鳴き続ける。足元にまとわりつく。朝は4時には起こしてくるし、部屋にこもればドアの前でギャン鳴きする。そのくせちょっと撫でてやればすぐに喉を鳴らす。元野良の根性はどこに置いてきたのか。無警戒にこちらに腹を向ける。生殺与奪を握る、自分より体の大きな生き物にそれはちょっとないと思う。もっとツンケンして欲しい。チョロ過ぎて不安になる。

 


 そもそも私は哺乳類飼うのがあまり好きではない。小学生のころ誕生日に買ってもらったハムスターを看取ってからというもの、

「本当にあの子は幸せだったんだろうか」

「うちに来ない方が幸せな人(ハムスター)生だったんじゃないだろうか」

「ちゃんと寿命まで生きたからと言って幸せであったとは言えないんじゃないだろうか」

「というか人間も哺乳類なのに同じ哺乳類を飼うことは許される行為なのか?」

……などという考えから抜け出せないでいる。たかだか数十年しか生きない人間が、他種族の生命の責任を背負えるのだろうか。愛玩のために彼らの一生を縛り付けていいのだろうか。彼らは何故か無警戒にこちらを信用してくるのだ。その信用を裏切りはしないか。

 


 「生命の責任」なんて言ったが、ペットを飼うな、などと主張するつもりは毛頭ない。また、多様な食文化を否定するつもりもない。日本人はクジラを食べる。同様にペットとして飼われるような動物を食べる文化もある。それらは理解出来なくとも尊重はされるべきだ。生きるということは命をいただくということだ。今流行りのヴィーガンになるつもりもないし、「いただきます」をちゃんといえばすむ話だと思う。

 

 ただ、自分が飼い主となった場合、彼らを幸せにできるという自信が無いのだ。食肉の理論で言えば「そこにいてくれること」を感謝すればすむ話である。しかし私には、四六時中彼らを全力で愛し続けることは出来ない。衣服に着く毛も、餌や糞の世話も煩わしい日がある。あざとい仕草に苛立つ日もある。そういう日に「いない方がよかった」なんて思ってしまう瞬間が、絶対にないと断言出来ようか。身近なぶん、彼らに返す感謝量の適正値がわからなくなる。漠然とした罪悪感がのしかかる。それに耐えられない。そんな私が彼らを好きだと言い切ることなど、到底できやしない。

 

 だからあえて言う。私は猫が嫌いだ。母が飼ってる猫も含め、嫌いだ。彼らが幸せに生きるサポートは出来る限りするけれど、できれば近寄ってきて欲しくない。そんなに信頼しないで欲しい。あの子は私の猫ではない。母の猫だ。だから許されたい。私は猫が嫌いだ。

 

 

 

 という訳で、つまり、創作物の中の猫なら案外好きだったりする。絶対にこちらからは手を出せない猫だ。かわいさしかない。あとただ単に人間に好き勝手される存在じゃなかったりするし。

 傷物語での羽川翼に憑いた怪異とかがいい例だと思う。障り猫。生命としての猫の原型留めてないじゃんとか言う意見は聞かなかったことにする。というかブラック羽川は良い。とてもいい。かわいい。最高。

 というか羽川翼が好きだ。その口癖からしていい。「何でもは知らないよ。知っていることだけ」って、知らないことに出会ったらまず調べるっていう彼女の姿を如実に表している。この一言に彼女のキャラクター性が詰まっている。

 話が逸れるが、阿良々木暦の「友達はいらない 人間強度が下がるから」もいい。共感ができるわけではないが、言いたいことはわかる。そしてそういうこと言っちゃう阿良々木暦がいい。

 忍野メメの「助ける?そりゃ無理だ。君が勝手に一人で助かるだけだよ。」も、彼のキャラクターが滲み出てる。最初読んだ時は意味不明だったけど、最近わかるようになった。要はものすごく無責任なのだ。「助けた」という行動の責任すら負わない。感謝されない代わりに、その行動で生じた何らかの不利益も無視している。「あなたが助けたせいで!」なんていう非難をさせる隙がない。好き。その上ちゃっかりお金は請求するのだから最高だと思う。物語シリーズで1番好きなキャラクターかもしれない。

 


 閑話休題

 


 最近ではTwitterでも猫動画とか写真とか大量に流れてくる。Twitterの猫画像は画面の向こうに猫が居るのでアウトだ。しかもツイート主がパクツイアカウントだったりする。それも猫嫌いに拍車がかかる。無責任なのは創作物の中だけにして欲しい。猫のかわいさを食い物にしないでくれ。猫はSNS映えのために生きてるんじゃないぞ。しかもちゃんと面白いのがまた腹が立つ。この前なんか猫科4種くらいが伸びをしている画像が流れてきた。虎とか豹とかに混じって猫。表情筋を的確に攻撃してくる。良くない。

 

 

 

 


 虎といえば今日の授業で漢文の先生がこんな話をしていた。

 

 

 先生の知り合いに商社で出世した人がいた。どれくらい出世していたかと言うと、中国勤務時には運転手・料理人付きの豪邸に住んでいたくらいだ。ちょっと想像が追いつかない。その人が中国に住んでいた頃の話である。

 


 その日は家族で外出していた。家族といっても子どもは受験の時期で日本にいたため、夫婦水入らずだ。運転手付きの車で優雅に帰宅途中、元々悪かった天気がひどい嵐になっていった。そこで料理人に、「大雨の中買い出しに行くのも大変でしょう。どうぞ家にある食材で適当に作ってください。」と連絡した。

 帰宅後、彼らに出されたのは豪勢な肉料理だった。

 


「見たことない肉だ。いったい何肉なんだ?」

「虎です」

 


虎の肉といえば『体の悪い部分と同じ部位を食べればたちまち健康になる』と言われ、漢方などでも重宝される。とても貴重な肉だ。それをこの料理人は隠し持っていたのだ。

 


ふと、妻はあることに気付いた。いつもなら擦り寄ってくる飼い猫がいない。

「猫はどうしたんですか?」

もうおわかりだろう。料理人は答える。

 


「あなたのお腹の中ですよ」

 

 

 

 


「中国では現在『虎の肉』とは『猫の肉』を指します。ちなみに奥さんはそれを聞いてさすがに気絶したそうです。また『龍』と書いて『蛇』を指したりもします。先生もレストランで……」

 


…………変な声が出た。話が全く頭に入ってこない。脳裏を駆け巡るのは、足元にすりよる猫、上目遣いでこちらをのぞき込む猫、すぐに腹を見せる猫、無限に毛をまき散らす猫、そして、美味しそうな肉料理。

 


 あぁ、人間強度が下がるとはこういうことなのだ。

 

 

 

 

 

 

 


私は猫が嫌いだ。

 


漢文の先生も嫌いだ。

恥の多い人生をおくっています。


 3本書き溜めたと言ったな?あれは嘘だ。

 

 1本目を投稿した時点で完全に書き上がっていたのは2本目まで。あとの2本は題名とプロット(という名の言いたいこと箇条書き)だけの状態だった。というかそういうのが十数本あったので「あと文章にするだけだし実質2本に数えられね?」と見切り発車した。早く誰かに読んで欲しかったしあわよくば「すごい」って言われたかった。大丈夫すぐ書けるそれより桜のやつを桜の季節のうちにあげたい、と自分に言い訳をしていた。馬鹿でしかない。阿呆なので文章にすることが1番大変なのだとわかってなかった。わかったつもりになっていた。

 

 言いたいことはいっぱいあるのに手が足りない。やりたいことはいっぱいあるのに体が足りない。朝遅刻ギリギリに家を飛び出して、必死に授業と予習復習をこなして、帰る頃にはもう夜で、ちょーとゆっくりご飯食べたりしたらいつの間にか深夜で、翌朝当たり前に寝坊する。自分のキャパシティを把握した気になってるから、キャパオーバーにあれもこれもと手を出してしまう。当然全て中途半端なままに時間だけすぎる。限られた時間を最大限有効活用できる化け物は世の中にごまんと居るのだ。彼らが日進月歩する中、私は毎日足踏みしてる。気づいたら周回遅れになっている。先週の私とも、先月の私とも、1年前からも何一つ変わらずに、何一つ成長せずに生きている。何もかもが足りなくて、無いものをあるように取り繕うことだけ上手くなって、毎日毎日ヘラヘラしてる。精神的に向上心のない者はばかだ。 そこら辺を歩いてる蟻の方が私よりずっとばかではない。

 

 

 

 焦りは当然ある。ただただ焦りだけが募って身動きができなくなる夜もある。そういう時になるとどんな文章を書いても駄文を極める。具体例としては上記の文が最適だろう。実はこんな調子の文章が、更にネガティブに加速しながら千字ほど続いていた。あまりにネガティブすぎて収集がつかなくなったし、何より第三者に見せるのははばかられる内容だったのでバッサリ割愛した。今から二、三日前の話だ。

 

 魂なぞ実体を持たないので、私というそんざいはどう頑張っても肉体に縛られる。肉体はこの世界に縛られる。ならば低気圧やら諸々の影響により、健康状態や精神状態に波があるのはしかたのないことだ。だがこの波が、たまにものすごく邪魔くさく思えてしまう。ネガティブで鬱々してるのは何かと疲れるし、日常生活のあらゆる場面で支障をきたす。しかも最中は自覚がない。数日ほど「あぁやっぱり私はどうしようもないなんの価値もないダメ人間のクズだったのだ」とぐるぐる鬱々して、波が過ぎ去るとようやく「病み期やんけ」と自覚が持てる。面倒だ。色々としんどい。もういっそ脳みそのデータをスキャンしてネット上で生きられたらどれだけ良いだろうかと思う。

 


 正常な思考をもってしても、私は特段優れた人間であるとは言い難い。井の中の蛙どころかミジンコあたりが妥当であるとは思ってる。どこにでもいる凡人。狭い世界の中でカエルに怯えて、大海のサメやらシャチやらの存在すら知らず、波に流されている。未来に光なんて全然見えないし、常に精神的向上心を持つことなんてできないばかでもあると思う。

 でもまぁそんなこと、今にはじまった話ではない。十数年ずっと神童にも天才にも秀才にもなってこなかった。目の前にはずっと高い越えられない壁があった。ずっと誰かに迷惑をかけながら生きてきた。そんなでも振り返れば、多少は身につけてきた知識もあったし、誰かが認めてくれたり褒めてくれることもあった。持久走のタイムは伸びたし、身長も伸びた。数年単位でならちゃんと成長してる。だいたい幼少期から「マイペースで感受性豊か」とかって評されてきた人間が、集団の先頭付近で走り続けるのは至難の業だ。そんなことして途中でバテるより、ちゃんと自分のペースを守って最後に帳尻があってたらいい。開き直った方が、細かいことですぐ凹むネガティブ根性とバランスが取れる。マイペースも、豊かと評された感受性も、今のとこ集団で足並み揃える時に足を引っ張ってばかりだ。でももう知らない。私に適合しない社会が悪い。

 

 マイペースに無駄なことをぐるぐる考えながら2歩進んで3歩下がるような進み方をするのが私だ。些細なことですぐ凹むのが私だ。他のすごい化け物みたいにロケットスピードで日進月歩なんてできないのが私だ。欠点を埋めるのも、未来を見通すのも時間がかかる。それでも自分の存在を否定せず、ちゃんと歩いていきたい。恥だろうとばかだろうと、そういう面を受け入れないと改善すら出来なくなる。どうせ少なくともあと数十年はこの肉体から抜け出せない。ならただ鬱々してるんじゃなくて、自分のことをちゃんと知りながら、自分の道を踏みしめたい。

 

 「ゆっくりでも止まらなければけっこう進む」ので。

 

 

さびしさの音をかき消すプリントはもうない

" さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。"
抜粋:綿矢りさ 蹴りたい背中

 

 第130回芥川賞を受賞したミリオンセラー作品。知ってる人も多いと思う。弱冠19歳の作品として史上最年少受賞とたいへん騒がれた。とはいえ2003年のことであり、私は当時3歳。そんなニュースなどまっっっっったく記憶にない。

 

 私がこの作品を初めて読んだのは中学生の頃だった。確か進〇ゼミの文庫本プレゼントキャンペーンみたいな何かで貰ったんだったと思う。ぶっちゃけ初読の感想は「なのこの短い上に山も谷もない物語!?他の本選んどきゃよかった……」だった。主人公も私もぼっちだし感情移入出来るかと思ったら、全くそんなことなかった。しかも、冒頭主人公が破いてるプリントは授業での顕微鏡観察レポート用紙。当時の私はものすごく理科の授業が好きだったのだ。破くなんてありえない。高校生だろうと中学生だろうと理科の授業楽しいに決まってる。孤独なんて軽く吹き飛ばされるくらいには最高の時間だ。葉緑体?オオカナダモ?いくつになってもはしゃげるに決まってるだろ💢💢💢💢
 そんなわけで序盤で躓いた私は、一応最後まで流し読みしたあと本棚の奥底に追いやってしまった。そっからだいたい4年間くらい、存在ごと内容も忘れ去ってしまう。恋も友情もまともに理解せずに厨二病こじらせてた中学二年生なので、もうこれはしょうがない気がする。背中を蹴りたくなる心情なんてわかるわけがない。ヒューマンドラマよりも推理小説やファンタジーものが面白くて面白くてしょうがないお年頃だ。許されたい。もうしょうがないことにしたい。

 


 「蹴りたい背中」を本棚から発掘し、その素晴らしさに悶えるのはざっと4年後のことだった。そろそろ受験がはじまりあっという間に高校生活が終わってしまうのに、何一つ成し遂げたことなどない。このままではAOの自己推薦書が1行も書けない。なんでもいいから手取り早く何かを成し遂げたい。焦った私はそうだ小説でも書いて賞を取ろうと思いつく。舐め腐りとち狂った発想だ。言い訳をすると、仲の良かった友達に小説家志望がいたこと、中学の授業で書いた創作がそこまで悪い評価じゃなかったことなどから「やれば出来るんじゃね???」と調子に乗っていた。うん、文章にしてみると改めてその舐め腐り具合がわかる。言い訳など見苦しい。情状酌量の余地などないな。有罪。

 

 

 作品の内容については割愛する。こんな文才のない人間の要約など、あの素晴らしい物語を知る上で邪魔にしかならない。とりあえず、主人公がなんだかんだあって最終的に背中を蹴りたくなる話、とだけ言っておこう。なんで、とか誰を、とか、詳しい5W1Hはその目で確認してきてくれ。本屋でタピオカミルクティーLサイズくらいの値段で売っている。もしくは最寄りの図書館へGO。

 

 

 私の感想でしかないのだが、この物語は主人公が高校一年生だったからこそ成り立つものだと思う。世にいうJKブランドではないが、高校生特有の儚さというか、力強さというか、大人と子供が共存した不安定さがこの作品をより魅力的なものにしている。あの反抗期やら思春期やら青春やらと名前がついた、ぐちゃぐちゃしたしちめんどくさい感情を、煮詰めて再結晶化して、純度の高いきらめきを手に入れている。文量が短いからと言って内容が薄いわけでは決してない。本人達にとっては別に綺麗でもなんでもない日常であるが、切り取って本にするに足りる魅力はそこにあった。19歳という若さだったからこそ表現出来た、15歳の等身大の物語に感じた。あまりにも等身大過ぎて、中学生にはその良さが理解できないほどに。

 

 「19歳だからこそ表現出来た」と言ったが、この部分に関しては確証はない。なぜなら、お恥ずかしながら私は綿矢りさの作品をこの一冊以外読んでないからである。

 というわけで17歳の私は、小説で賞を取るなど到底叶わないとのだと思い知った。自分にはあと2年あってもこんなの書けない。さらに、19歳だからだと一応仮定はするが、19歳じゃなくてもこんなすごいのを書ける可能性だってあるのだ。世の中には綿矢りさレベルの作家はすごいいっぱいいる。もうめっちゃいる。どう頑張っても無理ゲー。諦めよう。それよりもこういう本めっちゃ読みたい。切実に。

 

 私もあと3ヶ月くらいで19歳になってしまう。時間はいつでも一方通行で、全然まったく待ってくれなどしない。私はもう高校生じゃないし、さびしさが鳴ってるように感じても、もうかき消すためのプリントなど手元にない。背中を蹴りたく思っても、あんな物語が生まれることはない。JKブランドは返納済みで、宙ぶらりんの立場のまんま、春が来るまで頑張らないといけない。まだ何もできてないのに、何者にもなれないままで、どんどんどんどん進んでく。今感じ今思う物事はそのうち忘れ去ってしまう。だとしたら、今しか書けない文章ってなんだろう。今しか生み出せない作品ってなんだろう。もし私に生み出せる力があれば、どんなきらめきの結晶ができるのだろう。幸い私は物語を考えるのが好きだ。永遠にひとつの主題をこねくりまわせるタイプの設定厨だ。そういう人間の、私の書いた物語ってどんなのか、一目見てみたい。知りたい。眺めたい。周りの評価なんて関係なしに、そういう本が私は読みたい。

 

それはもう、切実に。

人生初の選挙に行ってきた話

 選挙に行ってきた。

 一応書き溜めてる方もあるが、数少ない浪人生活中のイベントだったのでこっちの話題を選ぶ。

 誰を選ぶかは事前に主に選挙公報を見て選んでいた。選挙公報自体は高校での模擬投票でさんざん見てきたが、自分の自治体のものを見るのは初めてだった。そして、候補者の主張がだいぶ違うのに驚いた。高齢者とたま〜に子育て世代への政策ばかりなのだ。少子高齢化が進む都市郊外地域とはいえ、みんな高齢者が〜って言ってる。投票大事ってこういうことか〜とやっと実感がもてた感じがした。なんというか、自分も当事者なんだなって。まだ有権者じゃない年代の人の分も、ちゃんと投票しなきゃなって。当たり前だけど。
 あとはそうだな、「頑張ります!」ってことしか伝わってこない薄っぺらい広報も結構あって笑った。両親と兄と「誰入れようかね〜」なんてちょこっと話したのも楽しかった。

 今日は模試だったので、期日前投票するか夜行くかはたまた早起きして零票確認チャレンジするか大変迷った。迷ってるうちに当日になっていた。あと零票確認は朝よわよわの私には普通に無理ゲーだった。というわけで模試帰りにちょろっと寄ることにした。

 駅を出たらあたりはもう暗くなっていた。電車でTwitter見てたせいで充電は残り10%。そして選挙会場の中学校は初めて行く場所。家から近いとはいえ、内心ドッキドキだった。なぜモバイルバッテリー充電し終わってたのに忘れてしまったのか。なぜ充電やばいとわかっていつつTwitterをやめられないのか。なぜ事前にちゃんと地図を確認しておかなかったのか。アプリで素早くナビを設定して画面を閉じる。答えは出ない。すぐには直せない。それが出来ていたら私は今頃大学生だった。

 スマホにあまり頼れない状況で知らない道を歩くのは、不安だけどそれ以上に楽しい。いつもより注意深く周囲を見るし、曲がり角を見逃さないよう集中する。いかんせん田舎なので街灯があまりないのが玉に瑕だが、ルンルン気分で会場に辿り着けた。


 今日のことはきっと、今後選挙する度に思い出すんだろう。

人気がなくて道があってるか何度もスマホを確認した事

会場が予想以上に家の目と鼻の先だった事

会場前のパネルで、暗い中目を凝らして選んだ候補者の名前を確認した事

初めて入る学校なのに、建物の匂いが自分の中学に似てて懐かしくなった事

スタッフが割と若くて、もしかしてバイトなのかなって思った事

噂のユポ紙の折り目の開き具合を試して1人ニヤついた事

家族連れに微笑ましく思った事

帰り道時間を確認しようと思ったらちょうどスマホの電源が切れた事

商店のシャッターを下ろすおじさんの頭が荒地だった事

自動車販売店からオイルの匂いが漂ってきた事

中古の電子機器屋人気のない作業場から「青春とは〜」とラジオが聞こえてきた事

 小説で読んだ学生運動の話を架空の出来事だと思い込んでた小学生の私が、SEALDsのニュースをデモなんてと冷めた目で見てた中学生の私が、政治に参加する年齢になったのだ。気付かないうちに時間はどんどん過ぎていく。青春とはなにかなんて今はまだ語れない。もう過ぎ去ったもののようにも思えるし、まだまだこれからな気もする。


 ただ一つ、今日また大人の方へ一歩進んだのは確かだ。

桜の樹の下の死体は私の恋人です

 まぁ比喩なんですけど。

 私は今現在非リアで恋人はいない。浪人生だしね。

 

 では桜の肥料になってる私の恋人は一体何かというと、今花見を楽しめる私の感性である。

 

 梶井基次郎という作家をご存知だろうか。教科書で名前を見かけた人、そこそこいるはずだ。もしかしたら某文豪バトルのアレでレモン爆弾を投げつけてくる変人白衣キャラとして知ってる人もいるかもしれない。カジイモトジロウとか微塵も聞いたことないぜって人も、「桜の樹の下には死体が埋まっている」という文言くらいなら聞いたことがあるんじゃなかろうか。漫画やドラマ、アニメetc……形を変えて度々使われてきたセリフだ。ラノベなんかでは「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」なんて題名のもあった。その、「桜の樹の下には死体が埋まっている」の文ではじまる散文詩の作者こそ、梶井基次郎だ。内容に関しては実際に読んでみて欲しい。著作権きれてるからすぐ読める。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/427_19793.html


 ついでにもうひとつの代表作「檸檬」の話もするので読んでくれ。というかこんな駄文を読む暇があるなら近代文学を読もう。最高だから。短編多いから。軒並み著作権切れで今すぐ読めるから。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/424_19826.html

 

 では以下「桜の樹の下には」「檸檬」を全員既読とみなして書き進める。ネタバレ注意。読んでないけどネタバレみたい?気持ちはわかるが読んでこい。たった数ページだぞ??

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読んだな?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大丈夫だな?????

 

 

 

 

 


“えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか——酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。”

抜粋: 檸檬 梶井基次郎

 

 そんな日を、あなたも経験したことがあると思う。どうしようもなく気分が沈んで、何も手につかなくなる日。私には、毎日そんな日が続いていた時期がある。JRどころかJKにすらならない頃、まだ友達もほとんど居なくて、毎日図書室の隅で息を殺していた頃の話だ。月並みな表現でいうならば、その頃の私には世界が灰色に見えていた。どんな美しい景色も、どんな感動的な話も、濁った水の中から眺めているようだった。
 その頃住んでいた家は桜並木のすぐ横で、春になるとベランダの外が薄ピンク色に塗り潰された。通学路の歩道も毎年花びらで覆われた。だから、春は目に入る色の数が極端に減るのだ。見渡す限り続く似たような作りの建物と、似たような枝ぶりのソメイヨシノ。春霞の水色と、建物の白色と、アスファルトと木の幹の黒と、桜のピンク。うららかな日差しに照らされて笑いながらかけていく下級生の笑顔。単純に簡潔に、「幸福」もしくは「平和」を具現化させたような景色である。その景色に、私はいつもどうしようもなく息苦しくなった。教室で、私はいつも楽しそうな笑顔の輪の外側にいた。誰とも話さなかった日の帰り道、馬鹿騒ぎするクラスメイトに見つからないよう歩いた通学路で、昨日の雨に濡れたピンクの花びらが黒い靴にこびりついて離れなかったのを鮮明に覚えてる。

 満開の桜は完全無欠である。日光を求め貪欲に広げられた緑色も、衰えを見せる茶色もない。大地にそびえ立つ幹の黒と、空へと咲き誇る薄いピンクのコントラスト。堂々たるシルエットはいかなる隙も見せない。桜、特に満開のソメイヨシノは、傷一つつかないダイヤモンドとか、錆びない金とか、そういったものが共通して持つ威圧感みたいなのを持っている。完全無欠な存在に、何もかもが欠けている私などという存在が、どうして近づけるだろうか。数色のみで表された平穏に私の居場所などどこにもなかった。「幸福」も「平和」も、私の日常を形容する言葉になり得なかった。

 どんなに美しかろうと、どんなに穏やかであろうと、私には灰色の冷たい世界に感じられた。満開の力強く見事なソメイヨシノを見る度に、その素晴らしさに感動できない自分が責められているように思えた。「綺麗だね」とどこかの誰かの言葉が聞こえる度に、私の灰色の世界を憐れまれているように感じた。桜が美しく咲けば咲くほど、私にはその姿を見る権利がないのだと思えた。私の目線ははいつも自分の足元に向いていた。黒い靴にこびりついた花びらは茶色く変色して、桜が散るまで靴底に挟まっていた。

 

“俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和なごんでくる。”

抜粋: 桜の樹の下には 梶井基次郎

 

 あの頃からだいぶ時間もたった。私は無事高校デビューを成功させ、ぼっちから脱却した。気の合う仲間もたくさん会ったし、一緒に笑い合える友達と馬鹿騒ぎだってした。毎年校門から桜並木を通って登校したし、花見に行ったり満開の桜の下で映画を撮ったりもした。

 

 桜の下に大義名分でもって近づいて、改めてその姿を見て、桜はちゃんと生き物だったのだと気づいた。ソメイヨシノって実は意外とカラフルだった。雌しべや雄しべの黄色、がくの緑や赤、幹は黒や肌色茶色や灰色なんかだし、黄緑や深緑の地衣類が張り付いている。枝にはところどころ若葉色の芽がつき、根は何者かに踏まれ白く傷をつけながらも、古い葉やふかふかの土を抱き込むように地中へ潜る。ものによっては枝が伐採された跡があったり、懐に大きな風穴を開けてるやつだっている。

 桜は生きていた。それも必死に。何十年も動かず、風雨に耐え、降り積もった傷を抱えて、必死に生きていた。その命をつなごうと花を咲かせていた。人為的に改良されそれが実を結ぶことなどないとも知らずに。考えれば思い至ることだし知らなかったわけではもちろんないが、なんだかやっと実感がもてたようだった。 いつの間にか私は、桜を恐ろしいと感じ無くなっていた。

 

 「結局ぼっちが友達できて桜を一緒に楽しめるようになったから桜が大丈夫になっただけでしょ」とか言われてしまえば何も言えなくなってしまう。そうじゃないと反論するだけの根拠を提示できない。しかし私には桜に対する感情の変化を「ぼっち脱却」って理由だけにしてしまうのは少し無理やりな気がするのだ。それくらい感情の変化は大きかった。それに味気ない。"感情"とか"感性"とかいうめちゃくちゃ抽象的な領域なんだからもうこの際よさげな理屈を信じたい。再現性も客観性も皆無だし、科学して証明することなんてできないんだから。

 

 厳密にいえば私と「桜の樹の下には」の主人公とでは、桜に対する感じ方が微妙に違う。ただ、桜に何らかの欠点を求める考えは共通している。なら彼にとっての「桜の樹の下の死体」は、私にとっての桜を見る感性と言える。言えなくても言う。その方がきっとずっと楽しくなる。

 

 私は絵を描き文字を書く人間なので、自分の感性が大好きなのは言うまでもないと思う。ことこれに関してはナルシストになる。いつもは自己肯定感低めだけど、こればっかりは本当に人格や知識・技術などからは切り離された部分だと思うので、Everyday自画自賛してる。絵を描くために生きてるので、もう命より大切だと言っても過言ではない。大好きで大切ならもうそれは恋人だ。

 

よって、私の恋人は今日もソメイヨシノの下に埋まっている。駅前の桜は、今は葉桜となっていた。

 

 そういえばウスバカゲロウ、別名アリジゴクは成虫になったあと、セミのように一日〜一週間で生殖だけして死ぬらしい。一体どれだけの個体が子孫を残せるのだろうか。本能に逆らって同性とくっついたり、一切生殖行動せずに浮遊し続けて死ぬやつらはどれくらいいるだろう。集団で飛翔して美しい虹彩となる彼らにも、はぐれ者のぼっちはいるのだろうか。いるなら何を考えてるのだろう。彼らには世界はどんな色をしているのだろう。

 

 

 

 

 蛇足だが、私にはもうひとつ怖いものがある。まんじゅうだ。

 

 

フォロワーもすなるブログといふものを、JRもしてみむとてするなり。

 ふとTwitterのTLを眺めると、四方八方それなりの人数がブログをはじめていた。ので、波に乗った。割とノリノリで乗った。元来自己顕示欲の強い人間なので、高確率で自分語りを聞いてもらえるこの状況はフィーバーボーナスタイムだと言っても過言ではない。フィーバーボーナスタイムが正しい日本語かどうかは定かではないが、私の辞書にはそう載っている。むしろフィーバーハイパーボーナススペシャルタイムの方が的確かもしれない。広辞苑に載ってなくても載せればいい。言葉は生き物だ。多少の臨機応変さは生き物として必要不可欠だ。この厳しい社会の生存競争を生き抜くために。大丈夫、言葉ちゃんもやればできる子YDK。

 

 

 つまらない冗談は置いておいて、自己紹介からはじめよう。自己紹介はいわば簡潔な自分語り。ニコ動でいう「忙しい人のための自分語り」。自分語りブログをするならば自己紹介は目次的役割を果たすはずだ。多分。

 

 

・ユーザーネーム:篠竹。
・身分:18歳。女子浪人生略してJR。
・趣味:絵や文字を見たり読んだりかいたりすること。
・特技:おえかきとさくぶん。おしゅうじは高校三年間で特技予備軍まで降格した。
・好きなもの:苺桃こし餡タピオカ若冲FGO
・嫌いなもの:辛いもの苦いものミントハーブティーガム英語
・家族構成:両親と兄と妹と金魚と猫
・トラウマ:自分抜きで出来上がった人間関係に放り込まれること。
・将来の夢:デザイナー。もしくは創造神。無理なら黒幕か魔法使い。
・直近の黒歴史:進路面談の紙の「将来の夢」の項目に「レオナルド・ダ・ヴィンチ」って書いて提出したこと。
・性格:「明るく元気でたまにお絵描きする、ちょっと忘れっぽくて抜けてるブラコン落ちこぼれガール」が当アカウントの基本設定。このガイドラインから逸脱するツイートは原則全て「にゃーん」に自動変換されますご留意ください。中の人は根暗コミュ障クソオタクサブカルメンヘライキリクズチキンブス、の、自己評価のうちどこまでが"自称"の2文字と仲良くしてるかわからない。主観でいえば全部"自称"さんとは絶交済な認識なのだが、本当にそうなら私の友人は0を振りかぶってマイナスになってるはずなのでどこかが違う。どれかが私に隠れて"自称"を頭に乗っけてる。どれだ。

 

 

 

 読んでの通りどこにでもいるごく普通のJRである。ガチャで言うN。RですらないしURよりレア度高い隠しキャラとかでももちろんない。NなJRであーる。とか書くのはオヤジギャグ未満の寒さなので今後自重する。
 冒頭「自己顕示欲が強いから自分語りする」などとのたまったが実際のところ「自分語り以外語れることがない」の方が正確だ。面白おかしく娯楽を提供できるようなギャグセンなどない。自己紹介の趣味や特技と言っても一般人に産毛が生えた程度。産毛とか1m離れたら生えてるか視認できない。ないのとおなじ。本当にどこにでもいるごく普通の一般人。いや一般人なら国立理系志望女子浪人生なんて絶滅危惧種にはなってないので一般人未満か。ごめん絶滅危惧種は盛りましたいたいたたかないでごめんって。

 

 つまり今後書いていく内容は中身のない人間の中身のない文字列である。断言した文でも基本的には「と、思いました。」の語尾が省略されていると考えて欲しい。たった18年しか生きていない人間が、タピオカ飲みたいいちご食べたいってつぶやきながらぐるぐるこねまわした薄っぺらい人生に関するさくぶんだ。作文と漢字表記することすらおこがましい。当然価値などないに等しいが、今この文章を読んでくれているあなたに対しては暇つぶしくらいの役には立てたらしい。あとはそうだな、「タピオカの為に3時間並ぶ若い女は一体どんな精神構造なのか、実際にデータを分析し論文をまとめたい」と考える酔狂人になら、価値があるのかもしれない。主に文字数稼ぎとして。

 

 

 他者に価値があろうとなかろうと、この文章は私にはそれなりに価値がある。第一に自己顕示欲を満たすため。第二に息抜きのため。第七くらいに小論の練習がランクインしてそう。もちろんこんな駄文をいくら書き連ねても文才が開花したりなどしないので、単なる限界浪人生の言い訳だ。はじめたからには継続したいがいかんせん私は飽き性だ。とりあえずはこれ含めて4本書き終えてるので三日坊主にはならない。とりあえずは。
 というか「土佐日記 冒頭」でググッたり、何書こうかニヤニヤしながら4本仕上げてたらTLのブログ波に乗遅れつつあった。よろしくない。まじでよろしくない。根暗コミュ障クソオタクサブカルメンヘライキリクズチキンブスの私が珍しく「イイナミノッテンネー(〜 ̄▽ ̄)〜〰️〰️〰️」できそうなビッグウェーブだったのに。もっとみんな根性を見せてほしい。門出の時期でみんなまだ浮ついてるでしょ??


 ちなみにさっきググッたら「フィーバーボーナスタイム」は辞書にのってなかったが「フィーバーボーナス」なるものが「モッピー」とかいう謎サイトに存在するらしい。ミニゲームでポイントを稼いでお小遣い稼ぎできるサイトだとか。
…………言葉ちゃんよ、YDK(やったがどうにもキナ臭い)じゃねぇか。